僕がサンバに出会ったのは学生時代に見た一本の映画から。その映画は『黒いオルフェ』。
|
その後四ッ谷村の会社に入って、先輩に連れていってもらったブラジルレストランが『イパネマ』。以来、会社から近いこともあってそのイパネマに入り浸りとなる。お客同志で楽しんでいるうちに浅草のサンバカ−ニバルがはじまった。
イパネマのママィをリ−ダ−にイパネマの客を集めて浅草のサンバカ−ニ−バルに出ることとなる。3回目か4回目に準優勝までいったが、ママィにおんぶにだっこのこのイパネマチ−ムは5位か6位に終ることが多かった。サンバも踊れない娘が当日にはじめて来て衣裳を着る。バテリアもほとんど練習なしで本番。店の客はわがままである。ママィにも限界があった。
ある年『イパネマ』は浅草に出るのをやめた。僕もそのわがままな客の一人であった。サンバステップもろくにできず、楽器もろくにたたけなかった。
サンバに本格的に取り組むようになったのは、リベルダ−ジに入ってからである。リベルダ−ジとの出会いは塩さんとの出会いにはじまる。(塩さんにナンパされたわけではない。)
その前に、僕には電撃的な出会いが二つあった。 ひとつはランバ−ダ、もうひとつは長元さんとの出会いである。
日本にランバ−ダが紹介される前、『イパネマ』で働いていたバイア出身のブラジレイラと出会った。その娘のランバ−ダを見てしびれた。これは すごい!
その娘にランバ−ダを教わっているうちに、もっと沢山のパタ−ンを知りたいという欲がでてきた。ある日たまたま会社のモニタ−を聴いていた時、エアロビクス・ランバ−ダの学校ができたことを知った。さっそく電話をかけて通いはじめたのが『ブンブンモレ−ノ』。
シャカラの事務所であるシャ−マンルドラ−ニの"伊ノ瀬 美樹さん"(旧 末広 久美子さん)が、最後まで面倒みたランバ−ダのエスコ−ラである。そのエスコ−ラでインストラクタ−をしていた人が長元さんで(本人は手伝っていたと言っていますが)、僕のその後の人生を大きく変えた大先生との出会いであった。
楽しくやるという長元さんの方針に僕はピッタリはまった。その『ブンブンモレ−ノ』に顔を出したのが塩さんというわけだ。
塩さんから『クルゼイロ』から分かれて新しいチ−ム『リベルダ−ジ』が できたことを知り、新しいもの好きの僕はすぐにのってしまった。(やっぱり塩さんにナンパされたのか....)『リベルダ−ジ』がはじめて浅草に出る年にタイミング良く入れたのだった。
以来、楽器をたたくほんとうの楽しさを知った。音符の読めない音痴の自分は感覚的に楽器を覚えるしかなかった。それゆえ今だに楽器には自信がない。
『黒いオルフェ』の映画以来、リオのカ−ニバルを見るのが夢であったが、その夢が4年前に実現した。一ヶ月ほど休みが取れることになりブラジルに帰る(間違いではない)ことができたのだ。
帰ると言ったのは、前々から「今楽しまなければいつ楽しむのか」というブラジル人の生き方が、僕の生き方とあっていたので、もし前世というものがあるなら僕の前世はブラジルの地にあったと思えるからである。実際ブラジルに帰った時、一週間もいないのにもう何年も住んでいる様な気がした。
ブラジル人も僕のことをほんとのブラジル人と思って話かけてきた。 僕も心がブラジレイロになっていたのだ。そのせいか日本に帰ってからも外国人からやたらとわけの分からぬ言葉で話かけられるので困っている。
今サルサ人口が増えつつある。サルサ、サンバ、メレンゲ、ランバ−ダ。どのダンスも自分が楽しむものである。 楽しくなければダンスではない。
なかでもランバ−ダは人に見せるというより自分達が楽しむ踊りである。あえて気を配るとすれば、女性を美しくみせることだ。エレガントに セクシ−に チャ−ミングに 気持ち良く踊らせ、女性の内面の美しさを外に出してあげられると最高である。
サンバやランバ−ダは、特に基本ステップが大事だ。基本ステップが踊れないと、いくらおかずを入れても面白くない。長い間やっていると最後にたどり着くところは、基本ステップの楽しさに行き着く。基本ステップだけで踊っていても、とても楽しいものだ。踊りはじめはおかずに走りやすいが、基本ステップという主食あってのおかずである事を、忘れないようにしたい。おかずだけの踊りは、サンバでないしランバ−ダでもない。
踊った後、「あー 気持ちいい」という快感を味わいたい。特にランバ−ダは、好きな時に 好きな娘と 好きなだけ 踊りたい踊りである。また、セクシ−で 豪快で スポ−ツ性があり、雰囲気を楽しむ踊りでもある。
ランバ−ダはダンスの中で、最高のダンスである.......
--LIBERDADE NEWS 11月号に掲載の『私とサンバ』より--next document