去年の浅草サンバカーニバルの後、「京子ちゃん、浅草に出たのは何回目になるの?」と聞かれました。その時までよく数えてみたことも無かった私は思い起こしてみてびっくり。なんと8回目だったんです。つまり今年の浅草で9回目。私ってそんなに長い間サンバしてたんだ!?と改めて思う今日この頃なのです... |
ところで、私がサンバに興味をもったきっかけというのは美大受験のために通っていたアトリエでのことでした。私達がデッサンを習っていたアトリエの”先生”というのは、いわゆる美大の学生アルバイトだったわけですが、その中にたまたま芸大のサンバ同好会に入っていた先生が一人いて、浪人中だった私の先輩にサンバのリズムパターンを遊び半分で教えたらしいのです。その数日後、昼間のアトリエで先生達のいないのをいいことにデッサンをさぼってサンバ大会になったのでした。といっても楽器なんて1つもなかったのですが、絵のモチーフにするためのガラクタ達がいっぱいあったので、とにかくたたいて音が出るもの(ビンや缶、バケツや塵取りetc.)を各自1つか2つ自分の前に並べて先輩からうろ覚えのパターン(本当にサンバのパターンばかりだったのかどうかは定かではないんですが....)を一人ずつ教えてもらって、10人足らずでいっせいにたたいたんです。後にも先にもアトリエでサンバしたのはこの1回だけでしたが、なんだかそれがよくわかんないなりにとっても面白かったのが脳裏に焼き付いて離れませんでした。
その年の11月、ムサ美の芸術祭を見に行った私は、サンバパーティー(研究会)の人達がとっても楽しそうに楽器をたたきながらパレードしているのを見て「ムサ美に受かったら絶対サンバパーティーに入るんだ!!」と決め、それが現実となったのでした。大学に入って渋谷道玄坂にあるヤマハで買った5インチのタンボリンは、今でもパゴーヂにはかかせない私の大のお気に入り、そして宝物です。
はじめは浅草のカーニバルがあってユニオン(大学サンバ連合)として毎年出場していることも知らずにサンバしてました。ちょうどサンバ研の創設者である渡辺亮さんはじめ主力メンバーの先輩達が卒業した直後だったので、女の子ばかり10人足らずという状態で、楽器の数も少なかったのですが、1人が1つづつ楽器をもって(そのころは小さいスルド1本とヘピニキ1本にタンボリン、アゴゴ、ガンザが数個位しかありませんでした)チャカポコたたいてました。先輩達が残してくれた独自の決めのパターンがいくつかあってスルドの合図でみんな一緒にたたきわけたりソロ回しをしたり、1人ずつ加わって1人ずつ抜けたり....など、少人数ならではの楽しいサンバを教えてもらいました。今ユニオンの決めのパターンに「オ・パ!!」と叫ぶのがありますが、あれはムサ美のオリジナルだったはずです。
そして、やはり先輩が残してくれたクララやベッチ、アルシオーネ、マルチーニョ・ダ・ヴィラやオス・オリジナイス・ド・サンバetc...などのカセットテープをいっぱい聞きまくりました!!この頃木のスティックでタンボリンを(特にソロで)曲に合わせてたたく時、盛り上りのところやポイント部分のパターンをたたき分けたり抑揚をつけたりなど、「タンボリンで歌を歌うような気持ちでたたくんだよ!」と時々練習に顔を出してくれた渡辺亮さんに教えてもらいました。エスコーラの時にムチで叩くタンボリンと比べて木のスティックで叩くタンボリンはとても繊細で奥が深く、本当に味わい深い面白さがあるのです。この時のアドバイスはこの後も私が曲の時にソロで叩く場合のアゴゴやヘピニキにも影響を及ぼしています。
6月に入って初めてユニオンとしての練習が始まり、浅草サンバカーニバルの存在を知りました。そしてエスコーラ形式のサンバを経験したのもこれが初めて。この時、いちばん感じたのはチームリーダーの指導力の重要さと、パートリーダーの必要性でした。私の浅草1回目の時のチームリーダーは上智大学の角さんという方でしたが、まさにすばらしいリーダーでした。ヘピニキ、カイシャ、スルド、タンボリン、パンディーロ、アゴゴ、クイーカ(コンガ、ボンゴも)、とにかくサンバの楽器はほとんどすべてこなし、(つまりパートごとのパターンもすべて把握していて)いつもチーム全体に気を配り、きさくで明るく話しやすく、うまーくみんなを引っ張ってくれるのでした。けれどこんな素晴らしいリーダーでも1人でチームの個人個人全員に指導できるわけがなく、そこでそれぞれの楽器ごとにパートリーダーが必ず必要となってくるのです。パートリーダーはチームリーダーの指導のもとで自分の楽器のパターンを同じパートの人達に指導できるようにいち早くマスターし、みんなに指導しながら1つにまとめることが大事。私はユニオンで3回浅草に出場しましたが、1回目の角さんのようなリーダーはその後お目にかかることはありませんでした。
大学時代最後の浅草。これで学校も卒業。当然サンバもこれで卒業と思っていましたので、ヘピニキかかえて3回目の浅草の帰り道に、社会人のサンバチームの人に声をかけられても(まだ就職先も決まっていなかったので)「ちょっとまだわかりません」と答えておかしくはない状況でした。ところが社会人3年目の4月、仕事も落ち着いてきて、ふっと気の抜けた週末のある日、2年前に「社会人になったらサンバしませんか?」と誘われたことを思い出し、ちょっと聞いてみようかなあ...とTELしてみた時から、私の社会人になってからのサンバ人生が始まったのでした。
TELしたその方はたまたまサンバをお休みしていたところだということで、前に所属していたチームとそのお友達を紹介してくれました。それがクルゼイロ・ド・スウル、そして現在リベルダーヂでメストレサラとして華々しく踊っている亀ちゃんでした。亀ちゃんに待ち合わせしてもらって初めてクルゼイロの練習に行き、その後みんなで代々木公園へくり出して、おつまみをつまみながらお酒を飲んでサンバしたり、ちょうどイベントが続いて商店街のパレードや、公園でのステージなどに顔を出しているうちに、忘れかけていたサンバの血が騒いで止まらなくなってしまったのでした。
そして社会人1回目の浅草はクルゼイロで出場、金沢さんとはこの時同じアゴゴで出たのを覚えています。次の年の2月頃、クルゼイロのメンバーが分裂して現在のリベルダーヂが発足。リーダーの木皿儀さんをはじめ、金沢さん、藤岡さん、塩野さん、郷さんなど、その他数十名とともに私もリベルダーヂに移り、今年でリベルダーヂ5回目の浅草出場となった訳です。ひと口に5回目と言ってもその間には本当にいろんなことが、いっぱいありました。サンバだけでなく塩野さんの影響でオロドゥン(サンバヘギ)にのめり込み、オロドゥン研究会でバンドをつくり、バイーア音楽を聴きまくった時期もありました。しかしなんと言っても本場ブラジルのサンバのノリを身にしみて感じさせてくれた日系ブラジル人2世の岡林さんの存在、そしてヘピニキを教えてもらったことは、本当に貴重な経験だったと思います。
残念ながらリベルダーヂ全体の練習ではまだ私は感じたことがないのですが、例えば休憩時間に岡林さんのたたくスルドの”ノリ”にたまたまうまーく数人がのっかってたたいた時の何とも言えないグルーヴ感と、ワクワクするような心地良さは忘れることができません。こんな気持ちのいい”ノリ”を近い将来リベルダーヂのみんなが1つになってたたけるようになったら、どんなに素晴らしいだろうと思っています。来年サンバ歴10年を迎えるというところで、赤ちゃんが生まれることになりました。育児とサンバ、うまーく両立できるように頑張って、これからも楽しいサンバ人生を送っていこうと思っております。
--LIBERDADE NEWS 12月号に連載の『私とサンバ』より--