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2000年12月号 |
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〜年寄りの思い出ばなしだけどさ〜 |
●10年前、とある事情により、それまで所属していた某チームを辞めてリベルダージの創立に参加したとき、私はけっこう悲壮な気分でもあった。なぜなら、私はサンバを始めたばかりでハムハムしていたのだが、そのハムハムはもっぱら、「大きなパレードでタイコ叩いたり踊ったりして舞い上がる」楽しみであり、音楽としてのサンバそのものへの愛着ではなかったのである。オヤジたちがボソボソうたっているみたいなモーホ系のサンバなど知ったことではなく、ただバテリアのドカスカにあこがれていた。そのドカスカを無邪気に楽しんでいたのに、青天の霹靂?のクーデター。まあ言ってみれば私は「義理と人情」にしがらんで某・大チームを離れ、新しい少人数のグループのほうに参加することになったのだが「ああ、これでしばらくはパレードはできないな」と思って寂しく感じていたものだった。
●だから私にとってリベルダージの創立時は正直なところ決して「ヨロコビヨロコビ」ではなかった。 それでも「まあやっていればいつかはイイコトもあるだろう」と気持ちを切り替え、積極的にチームの運営に関わるようになっていったのだが、当初の予測をいい方に裏切って、発足の年からリベルダージは浅草に参加することができた。案ずるより生むが易し、てなもので、心配することはなかったのである。最初の年にはエンヘードもアレゴリアもなく、ただバツカーダだけで出場し、「ダンス賞」なるものをいただいた。ダンサーは大喜びだったが(私も当時はダンサーだったのだ、なは)「俺はなんだかオモシロクないぞ」とふくれっつらでつぶやいていた初代ヂレトール岡林氏の顔が忘れられない。
●その後、浅草での順位に関していうなら、リベルダージは極めて順調に発展してきたように思えるのだが、しかし内実はそんな簡単なものではなかった。モメごとというほど大げさなものではなかったと思うが、人間の集まりの運営というものはそれなりに難しい。それに、人数はなかなか順調には増えたとは言い難い。練習を見学に来てくれた人も、入会する人は多くなかった。「なにがいけないんだろう」「どうしたら見学に来てくれた人が魅力を感じて入ってくれるんだろう」と真剣に会議したものだ。
●それでも、95年頃からボチボチと、リベルダージの今を支える人たちが入ってきて定着してくれるようになった。そして今や、ご存じのような大所帯、メンバー定着に苦労していた古株たちは泣いて喜ぶ事態である。おまけに、チームの運営などにも積極的に関わってくれるメンバーたちが続々出てきたことは、ババくさい言い方だが、隔日の感がある。とはいえ、大所帯になったが故の苦労やギクシャクもやはりあることは否定できない。
●なべてものごとは無常なり。日々変化する。変化は必ずしも「良いこと」ばかりではないのであるが、悪い変化もまた永遠のものではない。よいときには素直に喜び、悪いときには「またいいコトもある」と思う、人間の知恵とはそのように用いるものだろう。そしてまた、それでも「継続は力なり」も真実。だれだったか、著名な大企業の経営者が「失敗なんてもんはない。失敗だと思ってそこでやめてしまえば失敗のままだが、それから学んで生かしていけば最後には必ず成功につながる、だから失敗なんてものはない」と言っていたという。リベルダージもまだまだ紆余曲折がありそうではあるが、うまくいかないときも「こういうときもある」と思って気長にやろう!
(紙面のほうの「リベルダージニュース」編集長はこの号をもって交代することになった)

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