Meu(=我流)Samba    2001.2.17 <おおゆみこサンバ化日記>

●私のバンド、O Vento Brasileiroでトロンボーンをゲストに迎えることになったので、レパートリーの曲をいくつか譜面に起こす。サンバの譜面を書くのはものすごく難しい。あらゆるところでシンコペーションしているので、単純に♪♪♪♪と書くわけに行かず、こんな感じになる。

こうやって16分音符分が前に食ってシンコペーションしていくことで、サンバの独特のドライブ感が出てくるのだが、このリズムをそれと認識するのは実に難しい。感覚のよほど優れている人はいざ知らず、人は往々にして、現実を自分の認識の枠組みに合わせてねじまげてしまうもんなのである。 サンバを始めた頃、サンバが他の音楽と違う感じがしているからこそとりたてて気に入っているはずなのに、認識の仕方はそれまでの枠組みでしかなされなかった。つまり、思い切りベタに♪♪♪♪としか認識できない。そりゃもちろん、シンコペーションを認識できないわけではなく、一小節の中でなら「タタンタ」というリズムがあるのは分かるが、それが小節の枠を飛び越えてまであるものとは捉えられなかった。しかもそれをおかしいとも思わなかった。それでいいと思っていたのである。何人かの感覚が秀でている人たちに「なんか違うよ」と言われてもなお理解できず、自分はちゃんと聞いたとおりに歌っていると思いこんでいた。 困ったことに、そのまま何年も経ってしまうのである。
●「人は往々にして」なんぞと一般化するのは実はかなりずうずうしい。実際に、ちゃんと認識している人は初めからいる。歌手でございといいながら、実はちっともその「キモ」のところを分かっていなかった、というのはかなり恥ずかしい。実際にそのころ録音したテープなど聴くと「私が悪うございましたぁっ」とはいつくばって謝らねばならない気分になる。
● しかし、その「恥ずかしい」という事実が分かるようになったというのは、自分的には一応、進歩している証拠ではある。世の中を見渡すと、真に実力のある人の方が謙虚だったりする。それは、「何も知らないからいい気になっている自分」をとりあえず乗り越えて、その姿の恥ずかしさを知るようになった故のことではないかと思う。なんであれ、ものごとを追及していけば果てしというものがない。進めば進むほど、さらに奥が深くあることがどんどん分かってくる。いやそんなえらそうなものじゃないか。自分が進んでいたつもりが、ただドアを開けて3_ほど中に足を入れたに過ぎないことが分かる、とでもいうべきか。  
● でも私はラッキーだった。どんなにヘタクソでも、私が始めた当時、まだサンバ人口は少なかった。歌を歌おうという人間はもっと少なかった。アマチュアベースとはいえ、大きな顔して歌ってこれたのも、それなりにパイオニア(というのはえらすぎるが)くさかったからである。頭抱えたくなるほどヘタなくせにクビにはならなかった。低いといえども私のレベルが、チームのレベルでありバンドのレベルだったのである(そりゃ何人かの優れた感覚の持ち主にとっては、私が足を引っ張っているように感じられたかもしれないが)。バンドやチームの進歩に連れて私も手探りながら進歩してきた。しかし今から始めようという人は大変かもしれない。バンドやチームがある程度、進歩してしまっている。私がものすごく長い間かかってやっと気が付き、ようやく分かりかけてきたサンバのリズムのしくみに、いきなり気が付くことを強いられる。気が付く、といえば簡単だが、認識の枠組みを変えなければ言われて気が付いても納得はしきれないのである。私は別にまったく独力で手探りで気づいてきたというわけではなく、さんざん言われたり教えられたりしてきたのだが、腑に落ちるまで長い年月が必要だった。それだけ自分が従来持っている認識の枠組みは強固なのである。
● しかしこれはもちろん、日本人のリズム感がニブい、というわけではない。「違い」であり、お互い様というものだ。かつて本紙に載せた加々美さんへのインタビューで聞いた話では、ブラジル人は日本式のラジオ体操ができないという。1拍目ですでに体の動きのベクトルは上方に向かう、というリズム感の彼らにとって、「イチ」で足を曲げて体を沈ませる体操は非常に難しい課題なのである。

      
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