〜どうせ着るなら・・・〜    2000.9 <おおゆみこサンバ化日記>

●シドニーオリンピックの開会式で入場行進した日本選手団を見て絶句した。なんと虹色のマントを来ている。目を楽しませる衣装の国々が続く中、またどうせ赤白のブレザーみたいな衣装なんだろうと思っていたのだが、あらびっくり。……う、うん、赤いブレザーよりはいい、うん。きれいじゃないか。思い切り目立っている、すばらしい……だがしかし、どうしても「センスがいい」とは思えないのだ。デザインを採用した側としては、曰く「オーストラリアの美しい自然を表現した」「環境問題をアピール」「世界の人々に夢を与える」…うん、そうだよね。マントそのものはたしかにとても美しい。いままでの日本の選手団とは一味もふたあじも違ってはいる。殻を破ろうという努力は買いたいと思う。しかしどうにもしっくりこない。案の定、翌日の新聞には「入場行進の衣装について国民から日本のオリンピック委員会に電話などが殺到、多くは批判的なもの」という記事が載っていた。海外のメディアも「日本らしくない」と、あまり評価してくれていないようだ。なんだか「生真面目」を破ろうとすると「突拍子もない」ところまでいってしまって、とことん「さりげないセンス」というのが苦手な国民なんだなと思ってしまう。

●イタリアもカラフルだったが、ブレザーは濃紺で統一し、ボトムにイタリアンカラーを持ってくるという意表のつき方をした。かわいくおしゃれで、面白い。フランスも例のトリコロールカラーなのだが、ひとりひとりが3色をそれぞれの組み合わせで着ている。青のシャツに白のブレザーなら振っているスカーフが赤だ。赤のシャツなら青いスカーフを振る。フランスらしい個人主義と国家のバランスのとりかただ。それにしても、いつものことながらイタリアやスペインやフランスというラテンの国の連中はやっぱり「おおはしゃぎ」状態。選手同士が抱き合い跳びはねふざけながら歩いている。カメラの前にくると我先にでばってきてコドモのようにアピールする。あまりにも期待どおり、類型そのものの「ラテン男」ぶりに苦笑してしまう。ほんとにこいつらバカだなーー。

● しかしここでふと思った。そうだ。イタリア人だったら日本のあのマントを、きっと見事に「着こなした」ことであろう、と。美しい色を思い切りアピールするべく、マントを翻して踊ってさえくれたかもしれない。ところが日本の選手は、当人たち自身が直前までこういう衣装であることは知らされなかったらしいが、なんだかマントの中で、それこそ手も出せずに当惑していた。マントの裾に棒のようなものが入っていて、それを手で持つ形になっているようで、デザインした人はもっとマント全体を大きくひるがえして欲しかったのではないかと思うのだが、実際はそのために手を振ることすらなにか遠慮がちで、照る照るボーズのようであった。「秩序正しく行進しましょう」とでも事前に注意があったのかと思ってしまうが(実際に「お偉方」はそう期待しているのだろうし)、いつものことながらハメをはずすことのない日本人選手たち。そこにいささかぶっとんだコンセプトのマント、これが何とも言えぬ違和感の正体だ。ギャップがあるのである。

● あのマントを着せるなら、国民性は一朝一夕にして変わらぬだろうとはいえ、「思い切り美しさをアピールしなさい」と事前に心構えを変えてもらえば良かった。細かいことをいえば、いっそおそろいのコンセプトの帽子もかぶって欲しかった。マントだけだからますますとってつけた感じになる。途中で一斉にマントを脱いで、下に着ている何か別のコスチュームが出現する演出があるのかと思ってしまったくらい、あれは「とりあえず着ている」いや、「着させられている」雰囲気がありすぎた。まさに文字通り「うわべだけ」なのである。イタリアほど脳天気になれとは言わないが、あのマントが似合う明るくしなやかな国民性であってほしい――まあそのようにこれからだんだんに変わっていくための第一歩、ということで評価したいとは思うが。

● それにしても、我々の目から見ると特に、あれはまさにパレードの「アーラ」。あんなにきれいな衣装を着たなら、「踊って」もらわないと違和感がある(^_^;)。アーラといえば、入場行進に先立って演じられたショーを見ていて、規模は違えど、なにか親しみを覚えてしまったリベジ人は多いと思う。2000種類以上と言われた様々な衣装、意表をつくような「アレゴリア」?(^_^;)を、「むむ、なにか使えそう」という目で見ていた人も少なくないのでは?

● そして、比較すべくもないほど小規模であっても、音楽と衣装と、舞台装置のようなものを創って人々の耳目を驚かせ楽しませるということの喜びをまた改めて感じてしまった。ショーの終わり頃、出演者たちの表情は一様に歓喜に満ちていた。あの歓喜の表情、簡単に出来ることをやっているだけでは出来ない表情を私たちだって出来るのだ。今年、目指していた優勝はならなかった。けれど終わってみれば順位はどうでもいい。たとえ手に入れられなくても、何かを目指して頑張ったからこそ得られる表情を確かに私たちも、浅草でしていたのだし、私たちのパフォーマンスは沿道の人々を十分に喜ばせ楽しませた。

● これはあくまで個人的な考えではあるが、やはり私は、浅草で優勝することは今後も意識していきたい。優勝を目指すことで、より力が結集して、より「どえらいもの」ができるのであれば。「優勝はどうでもいい」チームになりたくはない。もちろん無理をして自分たちが楽しくなくなるのでは本末転倒だが、身の丈にあった進み方をしていけばいい。毎年でなくてもいいし、今までのやり方を見直して「無理」がくる部分は改善していけばいい。ヤワラちゃんだって金メダルを取るには8年かかった。年齢が関係するような競技をしているわけではない私たちはもっとゆっくりじっくり進んでいったって大丈夫だ。

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